シン・母 遠距離介護日記+

遠方にいる認知症の母の備忘録を中心に、日常のあれやこれやを書いています。

寝起きの「無」の時間は、瞑想に似ている

日曜日の記録。

目覚めのいい夫に起こされた。

慌てて起き上がったのでフラフラするし、目が半分しか開かないので、まずは歯を磨く。

歯ブラシをくわえたまま倒れると危険なので、椅子に座ってじっくりと磨く。

目を閉じたほうが感覚が冴えるのか、歯と歯茎の境目に、歯ブラシの毛先が当たるのを感じる。

ジャストフィットが気持ちがいいので、細かく歯ブラシの角度を変えながら「ピッタリの感覚」を探っていると、半分寝ていると思ったのか「もう、えーで」と夫にうながされた。

口をすすぎ、石鹸でしっかり顔を洗って目薬をさすと、ようやく視界が明るくなって、動き出す気力が湧いてくる。

 

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朝が弱いのは、子どもの頃から変わらない。

兄の小学生の時の作文に「ぼくの妹」というのがあって、その書き出しにはこう書かれている。

「妹は朝寝坊です。起こしにいくといつも『もうちょっと、寝る』と言います」

兄が作文用紙に向かった時、まず浮かんだのがそれかと思うと笑える。

「妹は優しいです。いつもお菓子を分けてくれます。でも、自分の好きなお菓子は分けてくれません」

というのもあった。

微笑ましいが、全体を通してほんのり私をディスっているのが兄らしく、よく私の特徴をとらえている。

最後は「僕は(私の名)が大好きです。それは妹だからです」という兄弟愛にあふれた、とってつけたような文章で締めくくられている。

その文章だけ後から書き足したように鉛筆の色が濃く、何度も消しゴムで消した跡が残っている。

おそらく母の指導が入り加筆を促されたのではないかと思っているが、大人的には褒めポイントらしく、先生の赤字の装飾に花マルがついている。

 

起きてすぐは頭の中がリセット状態になっていて、声を発する気力も湧いてこない。

帰省中は母のベットの下に布団を敷いて寝るのだが、起きてしばらくは、私と母の関係が昔のそれに戻る時間だ。

 

母がベットの端に腰かけて、寝ている私を見下ろしながら、起こしにかかるところから一日が始まる。

私としてはもう少し寝ていたいと思うのだが、すっかり覚醒してしまった母はかまって欲しくてたまらない。

観念して起き上がるけれど、頭はぼうっとしているし、動く気にも声を出す気にもならない。

起き上がったまま、目を閉じてじっとしていることもある。

そんな私の様子をみて、母が「ちょっとここ座りなさい」と言って私を自分の前に座らせ、肩をマッサージしてくれる。

その瞬間、時が数十年遡るかのようだ。

母は肩もみが上手いので、力は弱くなったもののツボを的確に押さえられ、ますます身体に力が入らない。

 

ひとしきりマッサージしてもらい、さすがに「ありがとう、もういいよ」と言うと、次は布団の畳み方の指南が始まる。

毛布や布団の端と端を合わせながら「こっちを持ちなさい」「きちっと合わせなさい、きちっと」を繰り返す。

母は昔から「きちっと」が口癖だった。

いつもなら認知症の母にいろいろ言われたらうるさいだけなのだが、起き抜けの私は「無」の状態なので、母の言うとおり、小さい子どものように母に従って、黙って布団をなおす。

 

眠ると脳がリセットされるのか、満たされるのか、単に頭がまわらず感情が平坦になるのか、小さなことがどうでもいいような気持ちになる。

「ここに自分がいる」という、ただそれだけ。

 

昔なら仕事のことや恋愛のこと、今だったら母のこと、いろんな悩みや不安、心配事でいっぱいになる夜もある。

そんな時いつもこう思う。

「とりあえず寝よう。朝起きたら、多分どうでもよくなってる」

 

翌朝目覚めると、眠気とだるさが身体中を支配していて、その他の感情が入り込む隙はない。

ふと寝る前の悶々とした状態を思い出すこともあるが、その時には何かを悟りきったように頭の中が「無」の状態になっていて、思い出すことすら億劫というか、「眠い」という事実の前では、取るに足らない、小さいなことになっている。

 

寝ることは、生きることなのだ。

家族にも夫にも「よく寝るなー」と感心されるけれど、寝起きのぼんやりも含めて、私のあれこれ散漫になりがちな脳をリセットして休ませ、また稼働させていくためには、ものすごく大切なことなのだ。

 

ここまで書いて、ふと思った。

寝起きの「無」の状態は、瞑想に似ているのかもしれないな。

貴重な時間を、明日もじっくり味わおう。