シン・母 遠距離介護日記+

遠方にいる認知症の母の備忘録を中心に、日常のあれやこれやを書いています。

1人の時間が気楽で好きだけど、1人が好きなのかどうかはわからない

お題「人といるのが好き?1人が好き?」

 

このお題に迷うことはない。

1人でいるほうが好きだ。

というより、「1人が気楽」なのだと思う。

 

このお題の中の「人」だけれど、私は知り合いのいない場所に1人で参加して楽しめるような社交性がないので、「人」といったら、家族と、数少ない友人達の顔しか思い浮かばない。

進学のタイミングで地元を出てからは、いろんなタイミングで引越しを繰り返したから、その度に人間関係もリセットされて、今も関係が続いているのは、高校時代の友人達だけだ。

 

子どもの頃から人の顔色や反応がすごく気になってしまう性質で、その場での自分の振る舞いを、別の目で眺めてジャッジしたり、調整したりするところがある。

学校のバザーや運動会、親戚の集まりなんかで人が大勢集まると、気があちこち散漫になってしまって落ち着かなかった。

場の雰囲気にいま一つ馴染めなくて、それを悟られないように、まわりの空気に合わせて振舞おうとして、疲れてしまうことが多かった。

中学生くらいまでは、日々プレッシャーというか、周りの人との和を保つことに常に気を配っていて、今思い出してもグレーな時代だ。

その頃の写真は、一応笑顔なんだけどぎこちない感じで、目が全く笑っていない。

ものすごく自意識過剰だったし、気を許していなかったし、そんな気持ちになってしまう自分も嫌で、安心して人と一緒にいることができなかった。

だから1人のほうが楽だったけれど、そんな風な気持ちでいる時は、1人でいても結構悶々と過ごしてしまうので、楽しい気分ではなかったと思う。

 

高校に入って環境が変わり、ようやく何か重たいものから解放された気がして、人と一緒にいて楽しいと思うことも増えた。

自分の意識が変わったから、その時期を共有した友人達とは、今も気が置けない間柄でいられるのだと思う。

いまでも、年に2回ほど数人で集まったりしている。

会っている間は懐かしい思い出話で盛り上がって楽しいけれど、それは「数時間のこと」で私にとってはイベントみたいなものだ。

その「いっときの時間」を楽しんだ後、帰ってきて1人でゆっくり過ごす時間が好きだ。

リラックスしてお風呂に入り、撮った写真を眺めたり、友人達の顔を思い浮かべたりして、楽しい気分で過ごすことができる。

 

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家族といる時は、「充電」の意味で、1人の時間が欲しいし、必要だ。

母との関係は昔から悪くないし、夫はマイペースで自ら好きなように動くタイプなので、私としては気を遣う必要がないというか、裏表もないので一緒にいて楽だ。

だけど、気は遣わないかわりに「気を持っていかれる」感覚というのはある。

同じ空間にいて一緒に行動したり会話したりすることは、多かれ少なかれパワーを使う。

1人でいる時には自分のためだけに使うパワーを、相手にも向けて使うことになるから消耗してしまう。

じゃあ充電を、となった時は、1人じゃないとフル充電できない。

相手からパワーをもらえるタイプと、自分の中のパワーが戻るのを待つタイプがいると思うけれど、私は後者だ。

母といても夫といても、長い時間を一緒に過ごせば疲れを感じるし、1人になった瞬間に自分のまわりの空気がほどけて、一気にリラックスするのもわかる。

誰の目も意識しない場所で、1人で気ままに過ごす時間が必要だ。

 

でも、認知症になったとは言え、まだ私を娘だと認識している母もいて、夫もいる私は本当の意味で1人になったことがない。

1人じゃないから「1人の時間が気楽で好き」と言えるのかもしれない。

いずれ1人になった時、私が同じことを言っているかどうかはわからない。